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森を見て木を見てまた森を見るということ。

「木を見て森を見ず」と、いう言葉がある。
目の前の小さいことに気を取られ、物事の全体が捉えられていない状況を言う。それではいけない、という教訓である。


全体感を持て。
大きな絵(ビッグ・ピクチャー)を描け。
俯瞰的な視点を持て。


これらはすべて、言い回しは違えど、全て同じことを言っている。日本にも諸外国にも、同じような意味の言葉は山ほどある。それだけ重要ということだ。



自分の一番の強みは何よりもまず”森を見る”事ができる点かな、と常日頃思っている。誰よりも大きく、深く、壮大な絵が描ける、それを強烈に意識している。

目の前にどっしりと鎮座するリアリティが溢れんばかりの事象を、必死になだめすかしながらその抽象度をじわじわ上げていく。この個別具体的な事象から展開された世界の構造はどうなっていて、自分は今そのどこらへんにいるのか、そしてそれともっと”外側”との関わりはどうなっているのか。要素間の有機的連関。虫瞰と鳥瞰。


これがきっちりと出来ていれば、目の前の小さな事に対して取るべき行動はめったなことでは外さない。目の前にある何かがどんなことを前提として存在しているか、それと世界との整合性、論理構成。森が見えていれば、どの木を見ればいいかなんて瞬時に分かる。


それだけ強く意識していても、ふっと気を抜いた瞬間に道に迷ってしまう事も結構ある。常に森を見続けるのは、なかなか難儀な事なのである。森をみながら木を見ることは、難しい。

それは、基本的に我々の脳がマルチ=タスキング仕様になっていない事に強く関係がある。複数の作業を同時にやることはできない。普段の生活でも、やれているように見えて、実はかなり効率が下がっていたり注意が散漫になっていたりする。

実はこれ、コンピュータでも同じである。ブラウザを開きながらiTuneで音楽を流し、更に表計算まで行うことができる、マルチ=タスクの達人とも言えるPCだが、コンピュータの中で実際に行われているのは、それぞれの作業をものすごく細かく分割して、A→B→C→A→B→.....という逐次処理を超高速で回しているだけだ。これが我々の目には同時並行的な作業に見えているにすぎない。



このように、我々が同時に物事を処理する事ができない以上、どうしても木”だけ”を見ている瞬間がある。

一般的な思考過程に置いて、森は「概念」である。個々人の脳内の情報空間に措定された実体のない冷たいものである。
それに対して、木は我々のまさに目の前に存在し、その存在感や質感、匂いや音すら感じる事ができるものである。この圧倒的なリアリティを前にして、我々の意識は瞬く間にその存在に捕らわれる。五感のすべてを刺激される中で、この誘惑はとても強いものとなる。

だから、我々は目の前の作業に没頭しがちだ。脳の中の無意識が頭の片隅にある森の重要性をどれだけ強調しようと、それはもはや遠い声に過ぎない。その時の自分にとっては、目の前にある”それ”だけが「世界」なのだ。


これは、自らが持つ知力の限りを尽くした闘争である。
これは、人間の本能に逆らって理性をその手に取り戻す長い旅である。
全体感を持つ事が大事、なんていう生易しいメッセージに騙されてはいけない。強烈な現実感に負けて永遠にそこから抜け出せなくなることを防ぐために、我々は歯を食いしばって抽象度を上げなければならない。


それくらい、森を見て木を見ることは、難しい。
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