書評レビュー東大生ブログ 右往左往 知識の相対化と、知への再帰性
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知識の相対化と、知への再帰性

書物の通時的・共時的連関



最近、哲学書を紐解く事が多くなってきた。

本は興味の赴くままに読む事にしているので、ウェブ上や人づてなどで引っ掛かったトピックに関するものを散発的に買っている。

もちろん、哲学は専門外なので、選んだ本や著者についての背景情報は一般常識の範囲を出ない。大体の場合、ほとんど手探りの状態から読み始める事になるのだが、これが結構な困難を伴う。単語の意味がわからない、アプリオリとされている命題が掴めない、分断された文脈による全体感の欠如、などなど、ハードルはかなり高いと言っていい。

これは恐らく、哲学という分野自体が持つ特殊性(閉じた意味空間とでも言おうか)に依拠する部分が大きいと思うのだが、より一般的に、ある分野の初学者がぶち当たる壁の少なくない部分をも示している。

基本的に、ある分野の特定の本を読む上で最も効率が高いのは、その本が書かれた文脈をもとから知っていて、前提知識が十分にあり、その本自体に書かれている内容をも予想出来る:内容の仮説を持ってそれを検証しながら読む事ができる場合である。

哲学書はもとより、歴史書や科学書、加えて文学作品ですら、その内容は当の本が書かれた以前の分野全ての歴史(作品)に深く関わっている。そして、これらを読みこなすためには、その分野の通時的・共時的な構造をある程度把握している必要がある。

この事が、これらの分野において初学者がまず越えなければいけない壁であり、最も苦労する部分であると思う。


知識の相対化、あるいは数点突破法



では、これらの分野の初学者は、いかにして良質な知識を得、効果的に学ぶことができるのだろうか。分野における歴史を全て学び、用語集を端から端まで暗記する事が必要なのだろうか。


自分はそうは思わない。

例えば哲学の場合、志溢れる新参者全てが、等しくソクラテスから事を始める必要は全く無い。それは苦痛でしかないばかりか、時間的にも経済的にも無茶な作業だ。

そうではなく、自分が興味を持っている部分を数か所選び、そこを深掘るように関連書籍をどんどん読んでいく事を勧めたい。

確かに読み始めはあまり知識が頭に入ってこず、雲を掴む様な感覚に襲われる事が多いのだが、何冊か読み進めるにつれて、少しずつ自分の知識が相対化されて、自分がいる場所がおぼろげながら見えてくる。全体の中での位置づけはまだ分からないまでも、自分の周りがどんな構造になっていて、どういうルールや前提があるかが理解できるようになってくるのだ。語句の意味がわかり、本の外に流れる大きな文脈を追えるようになり、読み進めるのが楽しくなってくる。これは、初学者が最初に感じる不可視の感覚からは想像できないほど早くやってくる知の黎明である。

ポイントは2点あると考える。

まず1つ目は、深堀りして広げていく点を幾つか持つ事。もちろんこれも興味に導かれるままでいいが、あまりそれぞれの点が遠すぎると、それらが各々の広がりによって相互に繋がっていく時期が遅くなってしまう。なので、ある程度の近傍点を選ぶとより効率的に知識を得ることができる。

2つ目は、読む本の種類に関するもの。すなわち、その本自体が歴史を形作っていくようなもの(以後、原典と呼ぶ)だけでなく、俯瞰的な視点を持ったもの(以後、解説書と呼ぶ)も積極的に読む事が重要である。原典は、例えばニーチェの「道徳の系譜 (岩波文庫)」であり、その場合の解説書は永井均「これがニ-チェだ (講談社現代新書)」に当たる。
上記で述べた相対化の過程では、読み始めた地点を深く掘るとともにその視界の範囲を広げる必要があり、これは原典を読むだけではなかなか難しい。そこで、当の本についてだけではなく、著者の背景情報やそれが書かれた文脈にまでたいてい触れている解説書の類も同時に読む事で、素早く周辺の知識を獲得する事が可能となる。鳥瞰と虫瞰を繰り返す事によって、より深く、より広く知識を集めていく。
巷で跋扈する原典至上主義なんてクソ食らえだと、そういうわけである。


知は再帰する



このようにして知識の範囲を広げてゆき、ある程度広範囲でその分野が踏まえていた前提や歴史・文脈の流れが見えてくると、序盤に手探り状態で読んだ本が言わんとしていた所がだんだんと理解できるようになる。全く知識が無い所から読んだ内容が、より高度な知識を持った状態で脳内に還ってくるのだ。忘れているなら読み返せばいい。最初に読んだ時よりずっと、その本が”読める”ようになっているだろう。

そして、その時(再帰)になって初めて、読んだ本全ての知識は相対化され、1つの体系を為す。初学者の最初の読書は、読者自身が初めての本に還ったその時に完成を見るのだ。その際には、自分がその分野に1つの確固たる基盤を得たと言っていいだろう。自分の専門を持ち、それを深く理解する過程は、この円環を為すプロセスの無限の繰り返しではないだろうか。


結び - たのしいどくしょのために



まぁ、どんな専門家でも自分の担当する分野の全てを知っているわけではないので、こんなの当たり前だという話になるかもしれないが、本エントリで言いたかったのは、最初のハードルは案外早く越えられるよって事と、あくまで自分が楽しめるトピックから入る事でその分野を極める事は十分に可能であるという事。


知的好奇心の赴くままに、知の大海を漂う事がいかに楽しいか、これを忘れては元も子も無い。
結局は、本を読むという行為そのもの、それを通して世界とつながる関係性そのものが、知の体系なんじゃないかと、そう思ったりするのである。
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No title

原典至上主義なんてあったんですか( ´゚д゚`)
それについて詳しく知ってるわけではないですが、原典をいろんな方向からみてみるのって結構楽しいのにー。

いろんな分野の本を興味のままに読むっていうのは、将来年老いても楽しめるものがあるんだという確信になるので賛成です。

No title

>とらさん

別に確立された用語としてあるわけじゃないですが、原典主義は色んな分野で出てきます。

専門家は原典だけ読めって言う傾向にありますが、自分は違うと思いますね。

No title

非常に面白く読了させて頂きました.
書物間(分野内)に成立する解釈学的循環のような概念と捉えてもいいのでしょうか.
相対化の過程をメタ的に捉え,相対化されたものを修正していく過程はなんとも言えず快感に感じます.

No title

>名無しさん

コメントありがとうございます。

そうですね、そんな感じです。
地平融合が起き続けている状態とでも言うんでしょうか、読んだ内容が自分の血となり肉となる感覚は結構肌で感じられると思っています。おっしゃる通り、快感です。
"水の流れの音と梢のそよぎに寝かしつけられるようにして、ぼくたちは眠りに落ち、そして、世界が若返った夢を見るのだ。"
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