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修士課程で良い研究をする方法

あるいは、”修士課程の学生が社会的に付加価値の高い研究をすることが難しいのはなぜか”

これまで、修士の研究/論文を数多く見てきた。
それと同時に、各学問分野の最前線で活躍しているプロの研究者の論文も、それに劣らず見てきた。

そして思う。

この両者の間には、根本的に異質の、絶対に埋まらない溝が横たわっているんじゃないか。

確かに、プロとアマには歴然とした経験と能力の差があるのは当たり前だ。
そういって諦めるのは、実にたやすい。

ただ、そこにある大きな差は、そういった特定分野の経験や頭のキレなんかだけでは説明が出来ないような”何か”を含んでいるような気がしてならないのだ。


その”違和感”が何か
それを理解する事で、自身修論を控えている立場としても、少しはましな成果物が出せるんじゃないだろうか。

考えてみた。

いい研究の条件


まず、(科学的な)研究をするときに満たすべき要素は何か。
(以下、前提として、科学の諸分野における研究を対象とする)

良い研究が満たしているべき要素は、大まかに言うと、

・新規性
  その成果が、まだ発表されておらず、且つ斬新な切り口/アプローチである事
・重要性
  当該分野において有用な研究である事。また、社会や科学の発展に寄与するもので
  ある事。
・客観性
  妥当な推論に基づいた結論である事。矛盾が無く、適切な根拠が示されている事。
・再現性
  または、反証可能性がある事。誰でもその結果を再現できるよう、諸条件を明らかに
  する事。
の4つだ。

初めの2つはテーマの設定に関する部分で、ここで研究の良し悪しがほとんど決まると言っていいだろう。
圧倒的に重要な要素。

残りの2つは、その研究が”科学”として体裁を成していかという部分。
プロフェッショナルであれば、ベースとして当然ある程度のレベルは満たしていなければならない。
ただ、この部分がかなりおろそかになっている研究成果も多いのは事実。
当然、そういうものは超メジャーな学術誌ではアクセプトされづらい。


これらがハイレベルで満たされていると、”Excellent”、”Outstanding”と評価される研究であるといえる。


修士課程の学生が満たせていない部分



上記の要素の中で、修士の学生の多くができていない部分はどこだろうか。

言ってしまえば、
全て、それもまんべんなく
ということになるんだが、それでもやはり一定の偏りはある。

下の2つ、研究としての体裁の部分は、修士課程における研究でもある程度はかっちりとまとめる事が出来るように思う。
教員のツッコミの力を借りて、時間をかければそこそこ整ったモノはできる。

そして、できていないのが上の2つ。
どんな課題を設定し、どんなストーリーを紡ぎ出すか。


つまり、斬新で且つ重要な課題を自ら設定する事が出来ていないのだ。



ではなぜ、これらを満たす事が出来ないのか。

修士の学生に圧倒的に欠けているものは何か。

答え:

科学哲学に関する知見、もしくは対象分野の思想的基盤


修論を書く学生に欠けているもの、思考能力、経験、対象分野に関する知識など様々あるが、自分が思う最も大きなモノがこれ。


そもそも、その分野において意味のある適切なテーマについて課題を設定し、そのストーリーラインを上手に構築することが出来てないのだ。
これについての知見と熟考がまったく無いから。
それ以前に、それらを省みるという発想自体、学生には希薄なように思える。



統覚への遡及、もしくは事物の本質への旅



その研究分野において、どんなテーマが”論点”となりうるのか。

何が解くべき問題であり、”解いたらいい”問題なのか。


ある研究テーマにはその研究をする目的が存在するが、その目的はより上位の目的によって設定されている。
そしてその上位の目的も、それよりも更に高次の研究目的によって規定される。

このような根源的な目的は「ソフト」なものであり、科学的で客観的な判断が下せない領域に存在する。
最終的には研究者の価値観などの主観的な基準に基づいて定義しなければいけないものだ。

一見ハードだと思われがちな科学のこのソフトな側面について、理解している学生は少ない。

科学哲学についての知見を得る事や対象分野の思想基盤を知る事は、より上位の目的への遡及の終着点付近にある目的が”どういうものであるべきか”を知る事の助けになる。
それを知らずして、過去の巨人たちの苦闘の歴史を顧みずして、主観的な判断は到底下せない。

研究を始めたばかりのヒヨッ子には、自分の全くの主観だけで妥当な判断を下す事は困難極まりない、だから過去から学ぼう、というわけである。

当該分野に脈々と受け継がれてきた思想、議論の的となった哲学的問題。
これらを理解しないまま良い問題を選びとることは、そもそも難しい。



どうすれば、良い研究が出来るか



では、これを踏まえたうえで、どうすれば修士課程の学生が質の高い研究を行う事が出来るのか。

あまり触れなかったが、論理的思考力、発想力を駆使して問題を解決する能力が重要だというのは言うまでもない。
ただ、それに関しては多くの参考になる読み物があるだろうし、それらに席を譲ろうと思う。


本エントリーでは、問題の設定の部分がより重要であり、そして主観的判断のレベルまでさかのぼった問題設定が見過ごされてるという事を述べてきた。

このような適切な問題設定をする事は可能なのだろうか。

自分の携わる分野に関する哲学的な基盤がまだまだ未発達な場合も多いと思う。
自分が学んでいる環境学は、その最たるものだ。

こういう場合には、自らその体系を一から作り上げるのは、時間的にも知力的にも修士にとっては困難を極めるだろう。

考えられる最もいい方法は、ごく普通のものだが、科学哲学一般について一通り学んでみる、というものだ。

まず、一般的な科学哲学とはなにか、それを知る事。

そして、自分の分野ではどんな哲学的な問いがありうるのか。それを考えてみる事。

これなしには真に付加価値を出せる論文を書く事はかなわない。そこには、どんな分野にも共通するような普遍的な問いが数多く存在する。


科学とは何か。
科学はどうあるべきか。
真理とは何か。


最低限の努力ではあるが、これらを知る事は、無限遠点からの視座に漸近するために必要不可欠な事だ。


これを踏まえたうえで、斬新なアプローチやロジックが通った成果物を形作っていくのだ。


永遠の問い:なにをするべきか


最後に1つ付け加える事がある。
ここで述べた事は、研究の「あるべき」姿を照らし出すための方法だ。
この「あるべき」に近づいていく事は何よりも重要な事だと思っているし、他の何にも増して優先されるべきだとも思う。

ただ、実際に研究に携わり実務に携わる際に、このような理想だけを眼前に据えて世界と対峙する事は、圧倒的な現実の前に身動き一つ出来なくなるという状況を造り出すかもしれない。
現場には、「あるべき」を一旦脇においてでも「やるべき」事がたくさんある。
これは自分が研究を進める中で学んだ事の1つであり、これもまた、真であると思う。



「何が本当に大事な事で、その中で自分はどんな役割を担う事ができるのだろうか。」
そんな事を考えながらも、一歩一歩進んで行かなければいけない。


時には、「あるべき」を捨てる決断をしなければならないかもしれない。
ただ、それはこれまで述べてきた事を無視した事と同じではない。

極限まで悩み、考え抜いたからこそ見える風景がある。

そう信じている。




研究とは、「研ぎ」「究める」事だ。
鋭利な頭を携え、知のフロンティアを切り崩して行こうじゃないか。



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