書評レビュー東大生ブログ 右往左往 論理は本当に世界共通の言語か?
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論理は本当に世界共通の言語か?

論理は世界共通の言語であると言われる。
どんなに文化や価値観、考え方が違っても、論理的に導き出された結論は必ず一緒だから、ロジカルでさえいれば話は通じる、ということである。

まぁ間違ってはいないし、ロジカルである事の必要性がわかる、いい主張だと思う。


ただ、残念ながらこれは事象のすべての側面を表しているわけではない。

異文化とのコミュニケーションで最も大きなハードルとなるもの、それは、前提条件の違いだ。
そして、論理という言語は、これに最も影響を受けやすい。



論理、特に演繹的な推論方法には、前提条件が必要である。
必ず参加者全員がアグリーするような共通認識によって、論理構造は支えられている。

ここにおいて、文化が違うとこの共通認識が存在する範囲がぐっと少なくなる。
前提となる共通認識が成り立たないと、論理は破たんしてしまう。

たとえば、

リンゴがある→今おなかがすいてる→おなかがすいてる時にはそこにある食べ物を食べる
→(結論)リンゴを食べるべき

という論理構造があるとする。

最初の2つに関しては、おそらく世界共通だと思う。
おなかは誰でもすくし、リンゴはリンゴだからだ。

では、一見完璧に見えるこの論理構造が通じない場合というのはどういう状況か。
それは、相手がリンゴが食用ではない文化にいる、またはリンゴが存在しない文化にいる場合だ。
隠れた前提条件として、リンゴは食べ物である、という命題がアグリーされないものだった、という事である。

この例においては、きちんとそれぞれの命題をチェックすればこうした行き違いは避けることができる。

しかし、実際の異文化コミュニケーションにおいては、このような前提条件が1つの会話の中にも無数に存在する。

それこそ、何万という変数がくっついているという感じだ。
とてもチェックしきれるような数ではない。

結局、正しい論理を組んでも、通じないことは多い。


外国の人と喋っていると、このことを痛切に感じる。

論理というシステム自体は国境を超えるが、異文化交流という対象については処理工程が多すぎるんじゃないか。
よりいいやり方があるような気がしてならない。。
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