書評レビュー東大生ブログ 右往左往 [Intuition]雑感
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郷里のマンガ論

修論提出を終え、卒業が確定した後初めての更新である。
修論から得た学びを書くと思いきや、そんなものは全く書かず、極めて懐古主義的な漫画/マンガ論を綴る。といっても、本稿はTwitter上で数回にわたりつぶやいた内容をまとめて加筆し、保存しておくことが目的だったりもするのだが。


数日前から実家に帰省しているのだが、これまでの例に漏れず、小さい頃読んでいた漫画を引っ張りだしてベッドの上でゴロゴロしながら読みふけっていると1日が終わるといった生活をしている。

実家とばあちゃん家が隣合わせという事もあり、実家の書架には親子3代にわたる蔵書が混在しており、自分が小さい頃読んでいた漫画は、同時に母親が小さい頃読んでいた漫画だったり、じいちゃんが読んでいたものだったりする。つまり、古いものから新しいものまでが乱雑に取り揃えてあって、幼少の時分には「のらくろ」から「ワンピース」までと、時空を超えて広大な守備範囲を誇ったものである。

そんなよく分からない読書体験を経て高校までを卒業し、めまぐるしく流行に追われる外の世界に飛び出しても、たまの帰省の際に必ず読み返したくなるのは、ちょっと古めの、現代の若者はあまり知らないような漫画である。

「ブラックジャック」を読んでいる若者はどれくらいいるだろうか、「バビル2世」は古典と呼ばれるのだろうか。

それらの本には、ジャンプやマガジン系列のマンガにはない、切なくも濃厚な魅力がある。なにかそれらの漫画を手に取る事を強いるような、魔力がある。

昔の漫画読んでると、それらが共通して世界文学として読める内容だという事に気づく。普遍的な「世界」や「人間」を主題として相手取り、それに真っ正面から挑んでいく鋭い記述。これらの漫画は、文学であった。少なくとも、日本文学であった。

これと比較して、現代のマンガは単なるエンターテインメントに堕している。そう言い切っていいだろう。「愛」や「友情」といったテーマにストーリーを与え、抑揚をつけて巧みに見せることに成功はしているが、それらの本質が表象されたものでは一切ない。それゆえに、どのマンガも均質化され、ここしばらくは堂々巡りを繰り返している。

この内容の変化を追って行くと、手塚治虫は紛れもなく日本が経験した漫画→マンガの変遷における一つのエポックメイキングな「事件」であり、石ノ森章太郎らもその流れを汲む。その頃すでに彼らの手によってマンガがエンターテインメントの極として練り上げられたからこそ、今の日本のアニメ・マンガが世界中に輸出できているという側面もある。(驚くなかれ、現代のマンガのすべてが、彼らの創り上げた世界に帰するのだ。)
今のマンガ・アニメはその頃のパクリだから、それらが文学性を捨てて展開した世界観が人口に膾炙し、むしろ世界に羽ばたいたという事実は興味深い。

しかしながら、この漫画の質的変化によって日本が支払った代償は大きいとも思う。

彼らトキワ荘の住人たちが躍動していた時代には、それまでの文学性を備えた漫画と、新たな方向に舵を切ったマンガが、絶妙な配分でバランスしていた。彼らの作品は、今でもページを繰ると活き活きとした表情で読者に何か大きなことを語りかける。現代のマンガは、どうだろう。


そんなことが頭から離れないから、声を大にして言いたいのである。
「あの頃は、よかったな」と。


軽く調べたら、やはりというべきか、手塚治虫は幼少期からミッキーマウスの影響を強く受けていたらしい。ディズニーは純度100%の娯楽を追求したエンターテインメントの王様みたいなものであるから、それに傾倒した手塚が生み出した作品の数々が、それまでの日本漫画とは一線を画すものであったとしても驚くには値しない。一人の迷える天才がなぜ多くを捨ててまでその領域に日本マンガの夜明けを見たのかは今となっては想像するしかないのだが、もっと別の展開があったはずだと、遠くはなれた未来から思う。彼が生み出した危うい均衡は、今では大きく傾いてしまったのだから。

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いいメモ術を模索する

メモ術を確立しようと思い立った。

何があった訳でもないが、今後の必要に備えて。

思えば、これまで生きてきてメモを取った事はほとんどない。

講義のノートテイクは板書ありきだし、授業自体ほとんど真面目に聞いたことが無いので、人の話をそのまんまメモするという場面に出会う事は希少。特別書くのが早いわけではなく、たまーにあるメモ必須の場面では、いまいち有効なメモを取れていなかったような記憶がある。

それに加えて、字の汚さ。これが結構クリティカル。スピードを追求しようとすると、とたんに判別不可能になってしまう。


そんなこんなで、メモを取った事がほぼ無い自分が、どうやって効率的にメモを取っていけばいいのか。
これから色々と本を読みながら方法論を整理していくつもり。


そもそもメモとは、重要な情報を後に再現できるように、一時的に紙面にストックしておく行為に他ならない。

保存しておきたい元情報は、文字ベースである事もあれば、音声や映像など五感全てをフルに使って獲得したものだ。さらに言えば、その場の空気感や自分の思いつきといった、第六感にほど近いものもある。
つまり、これだけ多岐にわたる情報を自らの記憶に繋ぎとめておくために、文字情報(+図)に落とす事が、メモのメモとしての役割である、と言う事だ。
当然ながらこれは凄く難しい。


ごくごく一般的に、以下では他者の話の内容をメモする状況に話を限定しよう。

メモを取る目的は重要な情報を後に再現する事だったから、ここでの理想は、全ての文脈と空気感を全て記述したメモこそが最高のメモと言う事になる。
※メモの目的として、「得た情報から示唆を得る」というのもあるから、全てを記述するのは間違いと言う指摘もあるが、本エントリでは、メモの役割としての(記述)→(編纂)→(示唆)のうちの記述の部分のみを”メモと言う行為”として論じる。

しかし、相手が話している間に全ての言葉をメモする事が不可能という時間的制約があるから、これは夢物語である。というか、相手の話の全部が全部、メモするほど大事な部分ではないだろう。当然、重要と思う部分だけメモする事になる。


いや、本当にそれでいいんだろうか。

さて、ここでテクストとコンテクストという話をしておこう。
言葉と文脈、とでも訳そうか。

特定の言葉/文が価値を持つためには、文脈が必要である。

例えば、「犬」という言葉はそれ単独では価値を持たない。情報価がゼロの状態。

それが特定の単語群と結び付いて初めて、特定の状況を指示する。有価値の第一段階は、ひとまず「文」であると言えるだろう。

「あの犬がさっき走った」、もしくは、「犬 走った」というメモがあって初めて、メモとしての役割が果たせている。

大体の人は、文の単位でメモを取る。もしくは、文の代わりに単語、句をメモする事によって文を”目指す。”有価値の最小単位が文である以上、単語単位でメモを取っていても、脳内では文を想起している。

文も、文同士で有機的な繋がりを持っている。文がまとまって段落となり、その集合が文章になる。そのすべてが文と言う最小単位の意味連鎖の中で繋がりを持って存在している。他の全ての部分によってある文の意味は決まり、他から独立した情報価を持った文は存在しない。

つまり、文単位でピンポイントのメモを取らざるを得ない我々が失っている情報は限りなく大きく、単独で「重要な情報」と呼べる記述はあり得ない、という事だ。

原理的に、”メモするべき相対的に重要な言葉”なんてものは無い。どの言葉もメモするべきものであり、そうしなければ価値は無い。

単語ベースで想起できる記述なんてたかが知れてるし、人間は捉えきれない(個人が恣意的に重要ではないと判断した)細部は一瞬で忘れるものだ。

だから、「メモを取る」という行為は、原理的に不可能性に挑む行為であり、正解は存在しない。


じゃあどうするか。

それをこれから考える。
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週刊東洋経済「哲学特集」のメッセージ

東洋経済の最新号は哲学特集だった。

心の平安を切に必要としている現代人に、今哲学がブームだそうだ。
非常に分かりやすく明快なテーマ設定w

書籍の売り上げランキングでも、昨年度はスキル本が人気だったが今年はそれよりも哲学とかの方が売れてる、というデータも誌面で示そうとしていた。なんか、そのメッセージはそのチャートであってるか?って感じの事がダラダラ述べられていたが。

まぁそれはどうでもいいんだけど、そもそも哲学って、心の保養になるような優しい「教え」を提供している学問だったっけ?という素朴な疑問が浮かんだ。

そうじゃないよね。
多様な分野があって一概には言えないけど、哲学は基本的に「問い」の学問だから。

人が存在し、生きる上で、どのような論点があるのか。
その答えはどのような方法で導かれるのか

哲学が教えるのは(教えるものが仮にあるとすれば)、これ以上でもこれ以下でもない。


近現代の哲学、特に言語哲学や分析哲学などの分野なんかは幾分科学的と言えるし、それが何らかの「教え」を授ける場合もあるかもしれない。でも、今話題になってるような、万人にとっつきやすい哲学は、単に人生の問い方、考え方を学ぶという意味合いを超えるものでは決してない。

耳触りのよい言葉を垂れ流し続けるものであるとすれば、それは「宗教」でしかない。

我々をこの物理的世界、認識世界に孤独なまま置き去りにし、個人としての思考を迫るもの、それが哲学だ。哲学とは、優しいものではなく、厳しいものであると自分は考える。


そこに助けを求める者には、哲学は何ももたらさないだろう。知恵さえも。


だから、コンビニの棚に踊る「今、哲学が熱い!」という安易なキャッチフレーズに違和感を覚えた。
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「露出社会」を柔らかく受け止める

ここ最近、ツイッターに言いたい事をだいぶ吸い取られているけど、ブログの方に回帰していきたいと思った。

タイムライン上に「露出社会」という言葉が流れたのはもうずいぶん前の事になる。その言葉は、よく思い出すわけではないが忘れ去るわけでもなく、自分の頭の隅の日の当らない所にひっそりと居場所を見つけたらしい。

露出社会。
ネット上に自分をいかに露出するか。多すぎもせず、少なすぎもせず。
露出リテラシーを身につけ、露出を楽しむ社会が到来している。

確かそんな話だった。

前のエントリでも論じた実名/匿名の話は、ネット上で色々な活動をする際に避けては通れない。

その意思決定によって、ネットから得られるもの、失うものがかなりの部分決まってくる。
その判断は、よくよく考えて行われたものであるべきだと思う。その場の恐怖心や虚栄心によって、本質を見失ってはいないだろうか。

マーケティングを行うもよし、自分の内面を外化するもよし。

なんにしろ、ここでの「露出」が持つ意味は非常に深い。

それを理解し、体感する。
体感する事によってのみ、リテラシーが高められる。


もうそこに出現しつつある新たな社会。怪しげな雰囲気を漂わせるその言葉を恐れてはならない。
その一員になるのは、思いのほか楽しい事であろう。
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スポーツの価値 - あまりに刹那的な芸術

この間酒の席で誰かと話した事について、ちょっと考えてみた。

スポーツ、それも連続性が高いスポーツは芸術であるという話。


例えばサッカー。

我々は、結果を見るために金を払ってスタジアムに行くのだろうか。自分の応援するチームの勝敗を確認するためにWOWOWと契約するのだろうか。


それは違う。
少なくとも、目の肥えたヨーロッパの人達は。


彼らが楽しみにしているのは、チームが勝つ事だけじゃない。
点が入るシーンを見る事。これも違う。

彼らが見るのは、ゴールに至るまでの連続的なプレーの流れ、もっと言うと一瞬のプレー(パス、シュート)の中に存在する美しさであり、芸術性である。

そう。彼らは、優れた芸術を探すのと同じように、サッカーを見る。


この一本のパスを見るために金を払った甲斐があった。
このシュートを見るために。

彼らはそう言う。


組織的に良く守った。
90分を通してボールを支配していた。

そんな事実には、価値は生まれない。

極めて刹那的に、ゼロコンマの間に凝縮されたもののために、金を払う。


サッカーを長く見ていると、得点に絡まないたった一つのプレーに涙する事がある。
我々人間が本来持っている、”美しさ”に対する本能的な共感がそうさせている。



我々には、「結果」は見えない。

点が入った。試合に勝った。
これらに感動を覚えるのは、これらが文脈に基づいているからであり、なんらかの外的な意味づけが為されているからである。
日本代表が勝っても、アメリカ人は何とも思わないであろう。これらの感動は、我々の過去に依存する。
また、これらの事実は、ルールに規定されている故のものである。「ボールがゴールラインを通過したらゴール」と言う事を知らなければ、ゴールを確認する事は出来ない。

得点とか勝敗と言う事実は、サッカーそのものを知らない少年が見た時に、何の意味も成さない。
つまり、これらは本質的に確認できないもの、”見えない”ものなのである。我々の「解釈」に過ぎない。


それに対して、1プレーの美しさは、普遍性を持つ。
人間が生得的に持っている審美眼によって捉える事ができる。根源的・原始的な美しさとして。何を知らなくても、それはわかる。優れた芸術作品が文化・言語・知識の壁を越えて万人の心を打つように。


どういう見方がいいとか、そういう話ではない。
余計なものをすべて取り払った後に残る価値の源泉は、そこにあるというだけの事だ。

普遍性を持った芸術としてのスポーツは、瞬間の中に存在する。
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そろそろ手に職をつけることにした。

どんな武器を携えて社会の荒波をくぐり抜け、価値を創造していくか。

非常に難しい問題だ。

最近ぼんやりと自分にとっての答えが見えてきた気がする。


新たなものを生み出していくこと。
日常生活における皆のアンメットニーズを掘り起こして、それを充足する財・サービスを作り上げる。

そんなものにワクワクするのかもしれない。


そしてやっぱり、これからの世界を動かしていくのは情報技術の力であることは間違いない。

IT勃興期の今、ITサービス展開のコストは劇的に低く、新しいものを作り出すというプロセスに一昔前の重々しさはない。週末起業という言葉も出てくるように、製品のベータ版を数日で作ってしまい、出来るだけ早くローンチし、消費者の反応を見て適宜修正していく。

あとは脳みそをガリガリ働かせるだけだ。


いや、そうじゃない。
やっぱり自らコードが書けなければお話しにならない。
人に任せるなんぞ、逆に時間がかかるではないか。
そうだ、Javaをやろう。マクロだけでは何もできない。

どうせ近いうちに必要になる。




というわけで、そろそろ手に職をつけて、溜めに溜めてカビが生えてきたアイディアに、新たな息吹を与えようかという話だ。

ちょっと本気で頑張ろうかと思う。
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森見登美彦「太陽の塔」をさっそく読んだ。

アニメ「四畳半神話体系」との衝撃の出会いからいくらも経っていない中、早速読んでみた。

なぜ本書か。
そう聞かれれば、一番有名であり、一番読まれているらしいから、という答え以外持ち合わせていない。

森見登美彦氏の書く世界は、どれも共通点があり、それぞれに繋がりがあるようだ。

京都。
大学生。
色恋沙汰との強烈な内面的対峙。

主人公の内面に渦巻く妄想はとどまる所を知らず、人生とはなんだ、恋とは、いやその前に私は選ばれた人間なのだ、と、過ぎゆく日常・非日常の中を生きていく。
文字のほとんどが主人公の思索の描写に費やされており、その出口の無い迷路のような思考は、読者を森見ワールドに深く引きずり込む。
これほどまでに虚無感が募り先の見えないゴミ溜めを描きつつ、大いに笑わせてくれる著者の力量はさすが。


小説はあまり評するものではないと勝手に思っているのでこれぐらいにしておくが、おもしろく一気に読みとおせた。

ただ、近しい幾人かに聞いたところによると、どうも文体の癖が強く、合わない人はとことん合わないらしい。
そんな違和感は微塵も感じず、おもしろいおもしろいと読みふけっていた自分は、知らないうちにかの地の遺伝子を色濃く受け継いでいたのだろうかと、少し嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになった。

思えば、これらの作品群で描写されているような思想的濃密さを求めてかの地の最高学府の門を叩いたのも、遠い昔のように感じられる。

京大には自分のようにほぼ勉強せずに大学に入ってくる捻くれ者ばかりが蠢いていると勝手に想像していたのだが、実際はそんなこともなく、聞けば、近年はごく普通の大学生がほとんどを占めるような状況になってしまったようだ。「真面目に受験勉強なぞするやつは東大へ行けばいい。そんな薄っぺらい奴はこっちから願い下げだ!」と考えていた自分も、ほどなくして勉強の大切さに気付いた。

そんな事で、大学一回生で味わったある種の失望を乗り越えたはいいが、現実世界が見えなくなるほどの濃い妄想の霧中に暮らすことはあまりなかった。

登美彦氏が在学中のころに出会いたかったものだ、と今更になって思う。
その時分は、まだまだ古き良き(?)京大生が多くいただろうに。


何にしろ、そこには確かに自由の精神が芽吹いていた。それを感じることはできた。
その心地よさの中にいてぬくぬくと過ごした4年間は、登美彦作品の主人公が感じる思いと紛れもなく同じものだった。
「大学生活の一切は不毛である」

なにせ、教授が学生に「講義に出てるなんて、あなたたち暇なんですね」とのたまうような大学である。
アメリカから帰って来たばかりの湯川秀樹博士が、「まぁ適当にやりなさい」というニュアンスの言葉を放った時から、現在の京都大学の思想の基礎となる大きな潮流が動き始めたという。
これらは多義的な解釈が可能であるが、それでもなお、緩慢かつ現世から遠く隔離された雰囲気がキャンパス内に流れていたことは事実だ。廃人製造所。そう呼ばれるのも無理からぬ話だ。

その根底には、大学構内に脈々と流れる思想の系譜がある事は疑いの余地はないのだが、それ以前に京都というこれまた異端の町が大きな影響を及ぼしているように思う。いざ京都を離れてみると、その想いはより一層大きくなるばかりだ。

1000年もの間、いつか都が戻ってくると信じ続けて暮らす人々がいる事を想像できるだろうか。
文化・伝統という安易な言葉では到底表現できそうにないほど強く濃く、街中に流れる粘度の高い空気を想像する事ができるだろうか。

「京都では、時間がゆっくりと流れるているんだよ」
20余年暮らした京都を去る新幹線のホームで涙したという恩師は、そう呟いた。



あー。
帰りたい。
第二の故郷以上の意味を持つ、あの場所へ。

登美彦氏が刹那的に垣間見せてくれる懐かしさだけで、満足できるといいんだが。


太陽の塔 (新潮文庫)

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"水の流れの音と梢のそよぎに寝かしつけられるようにして、ぼくたちは眠りに落ち、そして、世界が若返った夢を見るのだ。"
- J 「ボートの三人男」
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