書評レビュー東大生ブログ 右往左往 [Thinking]思考
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本の読み方に関するWEBクリップ

Twitter経由で見つけた、大変参考になる本の読み方のTogetterリンク2つ(人文書の読み方/数学書の読み方)を載せておく。どちらも、その方法に則るのはかなりの努力と時間を要するが、”血肉になる読書”とは本来こういうものであると思う。

人文書の読み方 -Togetter
人文学の世界で「テクストが読める」ということはどういうことか?

数学書の読み方 -Togetter
takey_y さんの「数学書の読み方」


加えて、風呂無駄さんのブログ記事も参照すべし。
意外と知られてない、自分を飛躍的に成長させる読書テクニック

 ここで重要なのは、文章に出てきた全ての登場人物や作者の情動を、並列に、あるいは、切り換えながら自分の脳内で血が出るほど誠実にシミュレートすることだ。自分の好きな登場人物や作者の情動の、感情移入しやすい部分だけシミュレートするのは、ただの精神的自慰行為にすぎない。自分がむかついたり反発を感じる作者や登場人物の身体、立場、気持ちになりきって、そこから見える世界を味あわなければならない。





参考記事:
知識の相対化と、知への再帰性
上記よりもメタな話だけど、自分の読書法、というか読書考。

Book of the Year 2010 :私的ベスト本
こちらもどうぞ。
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”効率性”再考 - 日常的な意思決定に際して

 生活の様々な局面でこれまで直感(に近い判断)で決めてきた行動規範や仕組みが積み上がっているが、最近、これら1つ1つを十分に見直す必要があることに気付いてきた。自分の行動パターンに対してそれぞれの仕組みが最適化されていないのだ。
 これらについて始めから1つずつ熟考していれば良かったんだけど、どう考えてもそんなしっかりしたこと出来る気がしない。

 よくよく考えてみると、そういうことがしっかりとできる人は、元々そういう”資質”を持っている人じゃないかと思う。ここでいう「元々」というのは、先天的なものに限らず後天的に獲得した形質をも含む。

 ほんの些細なこと、例えば「どんな形状のポストイットを使うか」レベルにしても、自分の行動特性に対して最適化されているかどうかで、それ以降にポストイットを使用するすべての場面で生産性が結構違ってくるんだけど、人生で最初のポストイットを買う時にそんなことは誰も考えていない。それができる人は、元々何に対しても解像度が高い性格の人。

 実はこれは我々人間にとって結構大きな問題で、重要度が高い項目であるにもかかわらず、緊急度が低く主題化されにくいものは問題視されず、長らく放っておかれる傾向にある。その最たるものは「健康」だったりするんだが、病気になって初めて、もはや当人が手放してしまった「健康」が主題化され、それに対しては事後的な処置しか選択肢が残っていないこととなる。”ばあちゃんなんかが「体にだけは気をつけてね」って言うのを華麗に聞き流す若者”という構図は珍しくもなんともないものだが、この「体にだけは気をつけて」というアドバイスは効率性の観点からも真理だったりする。しかし悲しいかな、我々はそれには当分気がつかない。

 つまり、普通の人は、色々と問題が出てきたり不便に感じたりするようになって初めてそれについて考える。自分自身が問題意識とともに改めてその対象を主題化するまでは、非効率的な選択を支持し続けている。この問題を避けるのが難しい理由は、その傾向が”性格”に近いからであると思う。特定の対象に関するハウツーが功を奏する割りに、一般性の高い効率性向上の方法論は実効性に乏しい。それは、事物の主題化の仕方自体が個々人の”資質”に深く関わっているため。この、「一般的な効率性の高さ」を改善するためには、そういう一般性の高いハウツーは意味が無い。

 「解像度を上げ」ながら「常に効率性を意識する」ことは口では簡単に言えるけど、たぶん実際にやろうとしても困難を極めるだろう。だから、我々一般人が取るべき方法は実は1つしかなくて、それは「日常的な判断のレベルを上げる」事。つまり、脊髄反射的な意思決定で判断を誤る確率を下げること。そちらの方(瞬間的な意思決定の精度向上)が、一定のレベルまでは訓練が報われる度合いが大きい。経験を積めば積むほど直感が鋭くなり、初期仮説の精度が高まってくる、とかいう戦コンっぽい話とは、ここら辺で繋がってくる。

 だから、自分を変えようといくら意気込んでもそんなに意味はなく、それよりも思考の精度を上げることがより効率的で生産的な生き方に繋がる、ということだ。なんにつけても。

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森を見て木を見てまた森を見るということ。

「木を見て森を見ず」と、いう言葉がある。
目の前の小さいことに気を取られ、物事の全体が捉えられていない状況を言う。それではいけない、という教訓である。


全体感を持て。
大きな絵(ビッグ・ピクチャー)を描け。
俯瞰的な視点を持て。


これらはすべて、言い回しは違えど、全て同じことを言っている。日本にも諸外国にも、同じような意味の言葉は山ほどある。それだけ重要ということだ。



自分の一番の強みは何よりもまず”森を見る”事ができる点かな、と常日頃思っている。誰よりも大きく、深く、壮大な絵が描ける、それを強烈に意識している。

目の前にどっしりと鎮座するリアリティが溢れんばかりの事象を、必死になだめすかしながらその抽象度をじわじわ上げていく。この個別具体的な事象から展開された世界の構造はどうなっていて、自分は今そのどこらへんにいるのか、そしてそれともっと”外側”との関わりはどうなっているのか。要素間の有機的連関。虫瞰と鳥瞰。


これがきっちりと出来ていれば、目の前の小さな事に対して取るべき行動はめったなことでは外さない。目の前にある何かがどんなことを前提として存在しているか、それと世界との整合性、論理構成。森が見えていれば、どの木を見ればいいかなんて瞬時に分かる。


それだけ強く意識していても、ふっと気を抜いた瞬間に道に迷ってしまう事も結構ある。常に森を見続けるのは、なかなか難儀な事なのである。森をみながら木を見ることは、難しい。

それは、基本的に我々の脳がマルチ=タスキング仕様になっていない事に強く関係がある。複数の作業を同時にやることはできない。普段の生活でも、やれているように見えて、実はかなり効率が下がっていたり注意が散漫になっていたりする。

実はこれ、コンピュータでも同じである。ブラウザを開きながらiTuneで音楽を流し、更に表計算まで行うことができる、マルチ=タスクの達人とも言えるPCだが、コンピュータの中で実際に行われているのは、それぞれの作業をものすごく細かく分割して、A→B→C→A→B→.....という逐次処理を超高速で回しているだけだ。これが我々の目には同時並行的な作業に見えているにすぎない。



このように、我々が同時に物事を処理する事ができない以上、どうしても木”だけ”を見ている瞬間がある。

一般的な思考過程に置いて、森は「概念」である。個々人の脳内の情報空間に措定された実体のない冷たいものである。
それに対して、木は我々のまさに目の前に存在し、その存在感や質感、匂いや音すら感じる事ができるものである。この圧倒的なリアリティを前にして、我々の意識は瞬く間にその存在に捕らわれる。五感のすべてを刺激される中で、この誘惑はとても強いものとなる。

だから、我々は目の前の作業に没頭しがちだ。脳の中の無意識が頭の片隅にある森の重要性をどれだけ強調しようと、それはもはや遠い声に過ぎない。その時の自分にとっては、目の前にある”それ”だけが「世界」なのだ。


これは、自らが持つ知力の限りを尽くした闘争である。
これは、人間の本能に逆らって理性をその手に取り戻す長い旅である。
全体感を持つ事が大事、なんていう生易しいメッセージに騙されてはいけない。強烈な現実感に負けて永遠にそこから抜け出せなくなることを防ぐために、我々は歯を食いしばって抽象度を上げなければならない。


それくらい、森を見て木を見ることは、難しい。
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情報の流れと、見える化と。

最近は、学会発表の概要提出締め切りやなんかで結構やることがたくさんある。それに加えてカードの不正使用があったり卒業後のあれこれについて考えなきゃいけなかったりと、タスクは積み重なっていくばかりだ。

もう色んな所で書き尽くされた仕事術の類を書くのはあんまり好きじゃないんだけど、自分がこういった日々を過ごす中で、効率性を高めながら日々の仕事をこなしていくためにやっぱりこれって大事だなぁと実感しているポイントがあって、これはある程度一般性が高く皆にとって有効な事なんだろうと思っているので、少し書き留めておく。

主に2点。

1.情報の導線の設計/制御

日々色々な人や媒体に接する中で、我々は大量の情報を自分の中に取り込んでいく。そしてそれを元に何か意思決定をしたり行動したりする。そしてインターネットの発達によって、どのような種類の情報をどれだけ取得するかは、かなりの部分自分自身でコントロールする事が可能になっている。

ここで重要なのは、自分が得たい/得るべき情報を「どの媒体から」「いつ」「どれだけの量」「どのような形式/方法で」得るのかをあらかじめ明確にしておき、それに基づいて情報の導線を設計する事だ。ニュースは朝フィードで取得して通勤時に一括して読む、とか、夜寝る前には一時間本を読む、とか。インプットだけでなく、アウトプットについても同様で、週末にはブログなどでまとまった文を書く、とかを自分ルールとして決めておく。更に重要なのは、こうやって導線を決めることは、「選択したもの以外のものは捨てる」という意思決定であるということを認識する事だ。

こうしていれば、基本的にはただダラダラと”無駄な時間”を過ごす事は無くなる。テレビを見てぼーっとする時間を自分の導線の中に組み込むのは全然いいと思う。ただ、それを「ぼーっとする時間」として決めておくことだ。そして決めていた時間を超えたらテレビをそっと消す。

導線設計とその制御が、どういう基準によって為されるかは個々人の価値観や必要性に左右されるんだけど、それとともに「合目的性」を常に意識しながら考えなければならない。どういう目的があってそれぞれの導線が設計されているか。仕事上のスキル向上でも、リラックスでも、そこに確固たる目的が存在しない行為は”忙しい時に””効率を上げようとする”なら無用。

それぞれ合目的性を満たした情報のI/O(インプット/アウトプット)システムには、もうひとつ、流れのなめらかさも必要だ。全ての情報がスムーズに流れるために、できるかぎり項目間の連接関係を把握し、ボトルネックを取り除く努力をしなければならない。一例としては、自分はカレンダーとToDoリストはiPhone/iPadアプリのPocket Informantで一元化して、ちょっとしたメモとかもそこに全て書き込む事にしてる。ITツール使用の例はまた別の機会にするが。


2.見える化

上記のように明確な導線を持つ事に加えて、もうひとつ大事なことは、アウトプットを「見える化」する事だと思っている。

日々の情報のインプットに対して適切なアウトプットをしていく事によって生活が成り立つのだが、自分がどんなアウトプットをしているかを人は意外と把握できていないものだ。それが定量的に見えていなければ、そこからのフィードバックを次のI/Oとして効率的に流していくことはかなわない。

まずは、徹底的に自分の行動とその帰結を記録する事を勧める。何にどれだけ時間を使っているのか、どれだけの成果が出たのか、どう感じたのか。今までに知らなかった自分の実態を目の前にして、鮮やかな驚きが得られることだろう。これだけで、前述の導線設計/制御の精度が格段に上がる。なおかつ、モチベーションも勝手に上がっていく。見える化は、効果抜群の魔法の道具なのである。

体重を減らしたければ、体重の推移と摂取カロリーを逐一記録しているだけで、かなり痩せられる。レコーディング・ダイエットこそが、唯一継続的に効果の上がるダイエットであるというわけだ。



上記の2点さえきっちりと意識していればおのずと効率は上がってくるし、山のように積み上がっていた作業もどんどんと減っていく事だろう。


さて、自分もそろそろこの積み上がった本の山をなんとかしたいもんだね・・・
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知識の相対化と、知への再帰性

書物の通時的・共時的連関



最近、哲学書を紐解く事が多くなってきた。

本は興味の赴くままに読む事にしているので、ウェブ上や人づてなどで引っ掛かったトピックに関するものを散発的に買っている。

もちろん、哲学は専門外なので、選んだ本や著者についての背景情報は一般常識の範囲を出ない。大体の場合、ほとんど手探りの状態から読み始める事になるのだが、これが結構な困難を伴う。単語の意味がわからない、アプリオリとされている命題が掴めない、分断された文脈による全体感の欠如、などなど、ハードルはかなり高いと言っていい。

これは恐らく、哲学という分野自体が持つ特殊性(閉じた意味空間とでも言おうか)に依拠する部分が大きいと思うのだが、より一般的に、ある分野の初学者がぶち当たる壁の少なくない部分をも示している。

基本的に、ある分野の特定の本を読む上で最も効率が高いのは、その本が書かれた文脈をもとから知っていて、前提知識が十分にあり、その本自体に書かれている内容をも予想出来る:内容の仮説を持ってそれを検証しながら読む事ができる場合である。

哲学書はもとより、歴史書や科学書、加えて文学作品ですら、その内容は当の本が書かれた以前の分野全ての歴史(作品)に深く関わっている。そして、これらを読みこなすためには、その分野の通時的・共時的な構造をある程度把握している必要がある。

この事が、これらの分野において初学者がまず越えなければいけない壁であり、最も苦労する部分であると思う。


知識の相対化、あるいは数点突破法



では、これらの分野の初学者は、いかにして良質な知識を得、効果的に学ぶことができるのだろうか。分野における歴史を全て学び、用語集を端から端まで暗記する事が必要なのだろうか。


自分はそうは思わない。

例えば哲学の場合、志溢れる新参者全てが、等しくソクラテスから事を始める必要は全く無い。それは苦痛でしかないばかりか、時間的にも経済的にも無茶な作業だ。

そうではなく、自分が興味を持っている部分を数か所選び、そこを深掘るように関連書籍をどんどん読んでいく事を勧めたい。

確かに読み始めはあまり知識が頭に入ってこず、雲を掴む様な感覚に襲われる事が多いのだが、何冊か読み進めるにつれて、少しずつ自分の知識が相対化されて、自分がいる場所がおぼろげながら見えてくる。全体の中での位置づけはまだ分からないまでも、自分の周りがどんな構造になっていて、どういうルールや前提があるかが理解できるようになってくるのだ。語句の意味がわかり、本の外に流れる大きな文脈を追えるようになり、読み進めるのが楽しくなってくる。これは、初学者が最初に感じる不可視の感覚からは想像できないほど早くやってくる知の黎明である。

ポイントは2点あると考える。

まず1つ目は、深堀りして広げていく点を幾つか持つ事。もちろんこれも興味に導かれるままでいいが、あまりそれぞれの点が遠すぎると、それらが各々の広がりによって相互に繋がっていく時期が遅くなってしまう。なので、ある程度の近傍点を選ぶとより効率的に知識を得ることができる。

2つ目は、読む本の種類に関するもの。すなわち、その本自体が歴史を形作っていくようなもの(以後、原典と呼ぶ)だけでなく、俯瞰的な視点を持ったもの(以後、解説書と呼ぶ)も積極的に読む事が重要である。原典は、例えばニーチェの「道徳の系譜 (岩波文庫)」であり、その場合の解説書は永井均「これがニ-チェだ (講談社現代新書)」に当たる。
上記で述べた相対化の過程では、読み始めた地点を深く掘るとともにその視界の範囲を広げる必要があり、これは原典を読むだけではなかなか難しい。そこで、当の本についてだけではなく、著者の背景情報やそれが書かれた文脈にまでたいてい触れている解説書の類も同時に読む事で、素早く周辺の知識を獲得する事が可能となる。鳥瞰と虫瞰を繰り返す事によって、より深く、より広く知識を集めていく。
巷で跋扈する原典至上主義なんてクソ食らえだと、そういうわけである。


知は再帰する



このようにして知識の範囲を広げてゆき、ある程度広範囲でその分野が踏まえていた前提や歴史・文脈の流れが見えてくると、序盤に手探り状態で読んだ本が言わんとしていた所がだんだんと理解できるようになる。全く知識が無い所から読んだ内容が、より高度な知識を持った状態で脳内に還ってくるのだ。忘れているなら読み返せばいい。最初に読んだ時よりずっと、その本が”読める”ようになっているだろう。

そして、その時(再帰)になって初めて、読んだ本全ての知識は相対化され、1つの体系を為す。初学者の最初の読書は、読者自身が初めての本に還ったその時に完成を見るのだ。その際には、自分がその分野に1つの確固たる基盤を得たと言っていいだろう。自分の専門を持ち、それを深く理解する過程は、この円環を為すプロセスの無限の繰り返しではないだろうか。


結び - たのしいどくしょのために



まぁ、どんな専門家でも自分の担当する分野の全てを知っているわけではないので、こんなの当たり前だという話になるかもしれないが、本エントリで言いたかったのは、最初のハードルは案外早く越えられるよって事と、あくまで自分が楽しめるトピックから入る事でその分野を極める事は十分に可能であるという事。


知的好奇心の赴くままに、知の大海を漂う事がいかに楽しいか、これを忘れては元も子も無い。
結局は、本を読むという行為そのもの、それを通して世界とつながる関係性そのものが、知の体系なんじゃないかと、そう思ったりするのである。
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人工知能の限界

・今日の勉強

日経BP BizCOLLEGE
芦田宏直の「ストック情報武装化論」
第7回 人工知能と機能主義の諸問題(3) http://bit.ly/9N11pR


元記事内の引用元(哲学者D・デネット)には、思考実験として数種類のロボットが登場する。

最も単純なプログラムを持つロボットR1は、自分の予備バッテリーをワゴンから取り出す際に作動する時限爆弾を爆発させてしまう。爆弾の存在は認識していたが、その爆弾が持つ意味、自らの行動に及ぼす影響を考慮する事ができなかった。

次に登場したR1D1は、「自分の行動の帰結として自分の意図したものだけではなく、副産物についての帰結も認識する」というプログラムを持っていた。だが、無数の副産物についての全ての帰結を演繹する作業に追われる中で、時限爆弾は結局爆発してしまった。

当然のように、最後に登場するロボットR2D1は、「自分の意図に関係のある帰結と関係のない帰結の区別を行い、関係のないものは無視する」というものになった。だが、彼は結局バッテリーのある部屋の前に立ち止まり、これまた時限爆弾は爆発した。自分の意図と無関係な帰結を探し出し、それを無視する作業に時間が取られてしまったことが原因だった。


元記事では、ここから機能主義の限界と、「無視」という行為が積極的・肯定的にプログラミングされ得る行為ではないとする主張を行っている。詳しくは、上記リンクから確認して欲しい。

※上記は、すべて元記事http://bit.ly/9N11pRを参考に作成


この問題はフレーム問題と呼ばれ、人工知能(AI)の研究分野における長年の難問である。
行おうとする行動から発生する無数の帰結を認識し、選り分けるのにかかる無限時間。人工知能の限界。

この問題に対して、最新の研究においては、状況を限定する事によって有限の空間内における推論を行わせるものが多くある。これはフレーム問題についての真の答えにはなり得ないが、現実的にある程度の”知性”を持つAIとしては成立するだろう。

また、ニューロンネットワークのような、パターン認識能力・学習能力を持つAIであれば克服可能とする向きもある。これは人間の脳と同じメカニズムであるが、実際に人間の推論能力に近いAIができるまでには、理論においても情報処理速度においても相当な進歩を待たなければいけないだろう。


では、我々人間は、いかにしてこのフレーム問題を乗り越えているのだろうか。
人工知能の分野においては、人間は完全にフレーム問題を克服したわけではなく、うまく克服しているように見えるだけという説もある。

人間の脳は、ものすごくいい加減だ。コンピュータのように、(マクロ的に見れば)0/1の信号の積み上げを繰り返して明確な推論をするわけでもなく、はっきりとした基準のもとで情報の取捨選択をしているわけではない。

外界から必要な情報を選択し、分類し、入力/無視する。
これだけの高度な情報取得プロセスを、我々はなんら意識することなくできる。1つの行動を起こす際に、考慮すべき要素をいちいち数え上げてはいない。そこにある飲み物に手を伸ばすとき、中身が安全かどうか、容器が掴めるものか、容器を持ち上げた事によってテーブルが倒壊する可能性について考えたりはしないだろう。

考え出せば無限にあるこれらの可能性のほぼすべてを、我々は難なく「無視」できる。それは経験であり、パターン認知であり、非常に高度な「捨てる技術」である。

人が歳を重ね経験を積むにつれて、当然このパターン化に依拠した行動(情報取捨)が増えるのだが、かといってこの機能が環境因子だけに由来するわけではない。生まれたての赤ちゃんであっても、思考停止することなく多くの情報を選びとり、学んでいく事ができる。赤ちゃんは、大人が無意識に捨てているものにも興味を示し、大人と比べて多くのものを「無視」しない。だが、それでもなお全ての可能性を検討する事はしない。ロボットよりもはるかに高度な推論エンジンを搭載しているのである。

脳の仕組みがこのようになっている理由は明確だ。脳は、省エネ指向なのだ。永久に立ち止まって考えてしまわないために、余計なエネルギーを消費しないために、脳は思考を節約する。

つまり、我々の脳は生得的に、いや、生命誕生以後40億年間に培ってきた膨大なパターン認識システムを核酸の塩基配列の中に組み込んでいる上に、機械には到底想像もできないほど多くの曖昧さを許容する演繹メソッドを有している。これゆえに、我々は機械から見るとものすごく高度な作業を日常的にこなす事ができるというわけだ。


このような人間の脳を模倣したAIを造り上げる事は、難しい。これからも様々な課題を克服しなければいけないだろう。この達成のために、恐らくは、数理の世界では長らく亜流とみなされてきたファジィ理論が重要な役割を担うのだろうし、ニューラルネットワーク的な学習モデルは必須であると思われる。その意味で、情報技術の発達によるところが大きいので、自分が生きている間は無理かもしれないんだが。

(機械の)知性の限界が正確すぎる部分にあるというのは皮肉なものだが、この事実から得られる示唆は大きい。多くの点で正反対の性質を有する「機械の知性」と「人間の知性」。この差異を理解する事が、我々人間の知性の可能性と限界を浮かび上がらせてくれるだろう。


関連記事:
書評 - 密閉都市のトリニティ
人工知能が恋をする??


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「自分の言葉」を使うこと

自分の言葉で物事を語る事は、かなり難しい。

どこかで聞いたような知識をつなぎ合わせて、どこかで見たような言い回しを使って、我々は言葉を吐く。

自分の思考や言語が先人から影響を受けるのは必然であり、過去の偉人たちの業績に誠実な姿勢で向かえば向かうほど、それらは自分の脳の中深くに入り込む。


「守破離」という言葉がある。
その道の達人になるには、まず達人の型を守り、それを真似るようにする。
型が完璧に身に付いたら、その型を自ら破り、自分の”個性”とも言うべきものを付け足す。
最後に、元々の型から完全に離れ、自分独自の新たな型を完成させる。

自分はまだまだ守の段階。誰かの言葉を介さなければ、何も語れない状態。

その事に、途方もない無力感を覚える。自分が、創造者たりえないという事実を超えられない。
人の言葉で世界を語り、人の思考で真理を演繹する。もはやそれ以外の道は選べないという事実だけが、その耐え難い苦痛の中で自分を支えている気がする。諦観。そう、他人の袴でやるしかないのだ。


決して出られない殻の中で、それでももがき続けて苦しみぬいた後で、ほんのちょっと、1ミリぐらいの隙間から外の光が見えることがある。たまーにだけど、それでも、きまりきった型ではない「違和感」とも言うべきものが、固い殻を少しだけ破って外界に触れようとするのがわかる。

それは、まだ「自分の言葉」ではなく、型との差異としての「違和感」が認識できているに過ぎない。既存のモノとは違う微細な「何か」。
でも、そんな何かが生まれた瞬間が、たまらなく好きだ。たとえそれが何に使えるのか分からなくても、そもそも価値があるものなのか分からなくても、それは今までの内的世界には存在し得なかった新しい部分なのだ。自分の脳内に現れた小さな空間は、その占有体積を広げていく事ができるかもしれない。

一つだけ言えるのは、その新しい「何か」こそが、いずれ「個性」と呼ばれるものになるという事だ。
今はまだ、守。でも、新たな萌芽は、見え始めている。



ルソーの有名な言葉に、もうひとつ付け加えたい。

人は三度生まれる。一度は存在するために、二度目は生きるために、三度目は語るために

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"水の流れの音と梢のそよぎに寝かしつけられるようにして、ぼくたちは眠りに落ち、そして、世界が若返った夢を見るのだ。"
- J 「ボートの三人男」
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