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「自分のアタマで考えよう」を読んで自分の頭で考えてみた話

人気社会派ブロガーちきりん氏の著作「自分のアタマで考えよう」を読んだ。社会人が所謂ロジカルシンキング周りの方法論について最低限押さえておくべき内容が、平易な表現でコンパクトにまとまっている一冊だった。

ただ、個人的に気になった、というか読み始めて3分でちょっとこけてしまった事があったので、ここに書いておく。



問題の箇所は、序章『「知っている」と「考える」はまったく別モノ』にある。

データを見ながらゼロベースで何が言えるかを考える思考態度が重要であると説く本章の中で、まず読者は下のようなデータを見ることになる。


本書p.4 図1を参考に著者作成
※元データは本書著者による仮データ


ここで登場するのは、ちょっと頭の悪いAさんと、聡明で日本の野球事情に疎い留学生Bさん。

Aさんはグラフを見て、

・ファンの高齢化でプロ野球の未来は暗い
・大リーグへの選手流出で魅力が無くなってる


など、自分の知識に基づいて喋ってしまうが、一方Bさんは、

・余暇に使える時間が長く、懐も暖かい高齢者のファンが増えているので、日本の野球界は明るい

と主張する。
本書では、知識ではなくゼロベースで考えたBさんの方が正しい、こういう思考をすべき、という流れになっている。


一見すると確かにゼロベースで考えていて、言っていることも妥当そう、と思いがちなのだが、このまま話が進んで行ってしまったことに若干の残尿感を感じたので、もうちょっと細かく見てみたい。

Bさんの主張で大きく推論が飛躍してしまっている部分は、
>余暇に使える時間が長く、懐も暖かい高齢者のファンが増えているので、
というところ。

実際の所、このグラフが示しているのは「構成比」のみであり、1990年のファンの数と2010年のファンの数がどのくらいなのかという情報は全く含まれていない。
つまりBさんは、積み上げ棒グラフ(絶対値)と100%積み上げ棒グラフ(比率)を混同していることにより、上記グラフを見ただけで高齢者の絶対数が増えている、と結論してしまった。

構成比のグラフが上の通りだった場合、ファンの総数の変化としては次の3つのケースが考えられる。


※1990年の人数を100とした

野球ファンの全人口が、1.増加しているケース、2.横ばいのケース、3.減少しているケース、である。

もし実情がケース3だった場合、高齢者の野球ファンの数は増加しているとは言えない。つまり、構成比の図だけからファンの数が増加していると見ることはできない。この点がBさんの最も単純かつ致命的なミスであり、「データを元にゼロベースで考える」ことができていなかった点でもある。

実際問題、日本野球界の直面している現状はおそらくケース3=野球ファンの絶対数の減少であるというのが最もありそうなケースである。むしろ、この20年で高齢者の数自体が増えているので、むしろ高齢者人口の中の野球ファン比率は他の世代よりも劇的に減少している可能性もある。

もう少し細かく考えてみよう。

ケース3を仮定した場合に、考慮すべき点はまだまだ沢山ある。
例えば、時系列での推移による場合分けも幾つか。


※1990年の人数を100とした

これも、実情がどのケースかによって、打ち手はだいぶ変わってくる。

さらに、増えている高齢者層の中身がどのような人達なのかも想像する必要がある。

・もし1990年には全員男性だったのに対して2010年は50%が女性で占められていたら?
・1990年には全国に散らばっていたが2010年ではホームチーム所在都市在住者が多い可能性は?

自分がもし日本プロ野球連盟の会長なら、以下のように収益の軸でも考えるかもしれない。

・高齢者は確かに人数ベースでは多いが、主に地上波での試合観戦や月に数回球場に足を運ぶ程度で課金額は少なく、グッズを買ってくれたりCSを年間契約してくれる若年層の方が課金率や単価は高い。人数は少なくともそちらにフォーカスすべきだ。

現状がどうなっているのかを正しく判断できなければ、とりうる打ち手の方向性が大きくずれてしまう可能性が高い。

プロ野球連盟の会長が上のような仮説を持ち、それが正しければ、若年層向けのCS放送加入キャンペーンに力を入れるかもしれない。

以上、色々と軸を変えながら細かく切り分けて見ていけば、だいぶまともな仮説が思い浮かぶが、長くなるので以下略とする。分析、問題解決を生業とする人達であれば、このくらいはだいたい15秒もあれば検討できると思っている。




確かに、本章が示すメッセージはあくまで「データを見る時はゼロベースで考えることが大事」という程度の導入的な位置づけなので、別に重大な問題でもなんでもないと言えばそうである。

しかし、全編を通して【課題(事象)の把握】と【施策(打ち手)の検討】というアプローチが全く異なる2つのプロセスを明確に分離して論じている箇所が無かったことは気になったし、そういう意識を持つことが出来ていればかわいそうなBさんは上記のミスを回避する事ができたとも思うのだ。

このように、現状を把握する事ひとつとっても、そこには圧倒的な構造の深さと多様性が潜んでおり、考えるべき事は無限にあるように思えてくる。それでいて、その1つでも取り違えるてしまうと、大きく的を外してしまう可能性を秘めているところに、問題解決のむずかしさ、そして「考えること」の奥深さがある。

思考の確度を上げるためには、事象の把握⇒打ち手の検討、のプロセスを正しい道筋で一歩ずつ進んで行くことが重要であり、本書を読んで「なるほど」と唸った読者は、長く続く思考の道の一歩目をようやく踏み出した所だろう。物事を部分に分け、もれなくダブりなく重要なポイントについて検討していくことで、それまではなんの事無しに通り過ぎていた情報から、その他大勢とは一味違った意味のある示唆を導き出すことができるようになる。

しかし、その鍛錬の道中で我々が気付くのは、思考するということは世界の複雑性を一身に引きる事と同義であり、ちきりん氏が考えるよりも遥かに入り組んだ世界の表層のほんの1ミリにも満たない薄皮一枚の部分でさえ、思考し尽くすことは困難を極める、という事実である。本書が説く、所謂フレームワーク的ロジカルシンキングは、偉大な先人達の思惟のただほんの一部分を体系化したに過ぎない。フレームワーク的な技術とは、「思考を捨てる」技術でもある。

何にしろ、ちきりん氏が本書の結びで述べているように、考えることは素晴らしく楽しい営為である。「考えること」について考えることもまた、素晴らしく楽しいことだと自分は思っている。
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アナログとデジタルの狭間で

12時間表記と24時間表記どちらを使う?


こんにちは!トラックバックテーマ担当の水谷です!今日のテーマは「12時間表記と24時間表記どちらを使う?」です。水谷は、24時間表記で書くことが多いですね。理由は、単純に「午前・午後」を書く手間が省けるから・・・です。これは、水谷だけかも知れませんが24時間表記の方が、見ただけで何時か思い浮かべやすい...
トラックバックテーマ 第928回「12時間表記と24時間表記どちらを使う?」



書くって話だとあんまり面白くないんで、「時計をどちらかの表記にするならどっちを選ぶ?」っていう観点で。


これはなかなか悩みどころ。

選べって言われれば12時間表記だけど、それぞれに一長一短があって、正直迷う。


24時間表記は、1日のうちそれがどの時刻かが一意に決まる。
つまり、12時間表記ではそれぞれの時間が2回ずつ回ってくるけど、24時間表記だとその時刻を指す表記は一つしかない。

でも、その分、午後の時間については、時計を見た瞬間に、それが12時間表記では何時に当たるのかをいちいち計算しなければいけない。毎回頭の中で-12してる。これは結構時間かかる。ゼロコンマの話だけど、結構めんどかったりする。




・・
・・・
これって俺だけ?

じゃ、ないよね。たぶん。

なんでいちいち12時間表記に換算するんだろう。
なんでそっちが染みついてるんだろう。
そもそも、片方だけでしか処理できないのはなんで?
いちいち換算するのはなんで?

ちょっと考えとこう。


んで、12時間表記だと、上の短所がクリアできてるし、まぁ普通の場面では特に混乱する事もないと思う。
文脈でわかるし。午前の話か午後の話かは。

ただ、ここに一つだけ12時間表記のクリティカルな問題がある。

そう、目覚まし機能のことだ。
12時台にセットしたいとき、正午がamなのかpmなのかさっぱり分からない(笑)

自分ちの時計なら覚えればいいけど、色々時計によって違うっぽいし、海外に行ったときとか正直お手上げだ。

そんな事かよって思うかもしれないけど、これにやられたことが何度も・・

まぁ、そんな話。


そして本題。
まえにちょっと考えた事があるテーマ。

アナログ時計とデジタル時計の違いとは。


デジタルとアナログの哲学的意味合い



どっちを使うかを問われれば、断然アナログ。
ビジュアルの力はすごい。


そしてデジタルとアナログの間には、12時間表記と24時間表記以上の深い深い溝があり、本質的な違いがある。


端的に言うと、「連続値」と「離散値」の違い。

アナログは、全ての時間が連続である、というか流れている。
デジタルと違って、2:45:52と2:45:53のあいだには、断絶はない。
そして、終わりと始まりが繋がっていて、全ての時間は連続だ。

デジタルは、それが示す時刻は全て非連続の離散値として表現される。
そこには、表記の最小単位に区切られた時間の小さな枠がいっぱいある。
時間は枠組みであり、今日の終わりと明日の始まりは、繋がっていない。
私たちは、その枠を1つずつ踏みしめながら前へ前へ進んでいく。


これらが示唆するのはどのような考えだろう。

それは、「人生とは何か」、という問いに繋がっている。


アナログは、輪廻転生である。
終わりは始まりであり、我々は無限にループする時間の中に生きる。

過去、現在、未来が混然一体となった「今」のみを表す。

デジタルは、常に消費され、戻ることのない時間を表す。

時間は常に前へ進み、戻ることがない。
今日と明日には繋がりはなく、人生は常に更新される。


デジタルで表された時間は、最小単位に切り分けられ、モノとして扱われる。

ミヒャル・エンデ「モモ」の中で盗まれた時間も、おそらくデジタルの時間だろう。


この観点からどっちを取るかは個人次第だけど、時計そのものと同じく、デジタルの方が現代の思想とフィットしているのは単なる偶然なんだろうか。
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修士課程で良い研究をする方法

あるいは、”修士課程の学生が社会的に付加価値の高い研究をすることが難しいのはなぜか”

これまで、修士の研究/論文を数多く見てきた。
それと同時に、各学問分野の最前線で活躍しているプロの研究者の論文も、それに劣らず見てきた。

そして思う。

この両者の間には、根本的に異質の、絶対に埋まらない溝が横たわっているんじゃないか。

確かに、プロとアマには歴然とした経験と能力の差があるのは当たり前だ。
そういって諦めるのは、実にたやすい。

ただ、そこにある大きな差は、そういった特定分野の経験や頭のキレなんかだけでは説明が出来ないような”何か”を含んでいるような気がしてならないのだ。


その”違和感”が何か
それを理解する事で、自身修論を控えている立場としても、少しはましな成果物が出せるんじゃないだろうか。

考えてみた。

いい研究の条件


まず、(科学的な)研究をするときに満たすべき要素は何か。
(以下、前提として、科学の諸分野における研究を対象とする)

良い研究が満たしているべき要素は、大まかに言うと、

・新規性
  その成果が、まだ発表されておらず、且つ斬新な切り口/アプローチである事
・重要性
  当該分野において有用な研究である事。また、社会や科学の発展に寄与するもので
  ある事。
・客観性
  妥当な推論に基づいた結論である事。矛盾が無く、適切な根拠が示されている事。
・再現性
  または、反証可能性がある事。誰でもその結果を再現できるよう、諸条件を明らかに
  する事。
の4つだ。

初めの2つはテーマの設定に関する部分で、ここで研究の良し悪しがほとんど決まると言っていいだろう。
圧倒的に重要な要素。

残りの2つは、その研究が”科学”として体裁を成していかという部分。
プロフェッショナルであれば、ベースとして当然ある程度のレベルは満たしていなければならない。
ただ、この部分がかなりおろそかになっている研究成果も多いのは事実。
当然、そういうものは超メジャーな学術誌ではアクセプトされづらい。


これらがハイレベルで満たされていると、”Excellent”、”Outstanding”と評価される研究であるといえる。


修士課程の学生が満たせていない部分



上記の要素の中で、修士の学生の多くができていない部分はどこだろうか。

言ってしまえば、
全て、それもまんべんなく
ということになるんだが、それでもやはり一定の偏りはある。

下の2つ、研究としての体裁の部分は、修士課程における研究でもある程度はかっちりとまとめる事が出来るように思う。
教員のツッコミの力を借りて、時間をかければそこそこ整ったモノはできる。

そして、できていないのが上の2つ。
どんな課題を設定し、どんなストーリーを紡ぎ出すか。


つまり、斬新で且つ重要な課題を自ら設定する事が出来ていないのだ。



ではなぜ、これらを満たす事が出来ないのか。

修士の学生に圧倒的に欠けているものは何か。

答え:

科学哲学に関する知見、もしくは対象分野の思想的基盤


修論を書く学生に欠けているもの、思考能力、経験、対象分野に関する知識など様々あるが、自分が思う最も大きなモノがこれ。


そもそも、その分野において意味のある適切なテーマについて課題を設定し、そのストーリーラインを上手に構築することが出来てないのだ。
これについての知見と熟考がまったく無いから。
それ以前に、それらを省みるという発想自体、学生には希薄なように思える。



統覚への遡及、もしくは事物の本質への旅



その研究分野において、どんなテーマが”論点”となりうるのか。

何が解くべき問題であり、”解いたらいい”問題なのか。


ある研究テーマにはその研究をする目的が存在するが、その目的はより上位の目的によって設定されている。
そしてその上位の目的も、それよりも更に高次の研究目的によって規定される。

このような根源的な目的は「ソフト」なものであり、科学的で客観的な判断が下せない領域に存在する。
最終的には研究者の価値観などの主観的な基準に基づいて定義しなければいけないものだ。

一見ハードだと思われがちな科学のこのソフトな側面について、理解している学生は少ない。

科学哲学についての知見を得る事や対象分野の思想基盤を知る事は、より上位の目的への遡及の終着点付近にある目的が”どういうものであるべきか”を知る事の助けになる。
それを知らずして、過去の巨人たちの苦闘の歴史を顧みずして、主観的な判断は到底下せない。

研究を始めたばかりのヒヨッ子には、自分の全くの主観だけで妥当な判断を下す事は困難極まりない、だから過去から学ぼう、というわけである。

当該分野に脈々と受け継がれてきた思想、議論の的となった哲学的問題。
これらを理解しないまま良い問題を選びとることは、そもそも難しい。



どうすれば、良い研究が出来るか



では、これを踏まえたうえで、どうすれば修士課程の学生が質の高い研究を行う事が出来るのか。

あまり触れなかったが、論理的思考力、発想力を駆使して問題を解決する能力が重要だというのは言うまでもない。
ただ、それに関しては多くの参考になる読み物があるだろうし、それらに席を譲ろうと思う。


本エントリーでは、問題の設定の部分がより重要であり、そして主観的判断のレベルまでさかのぼった問題設定が見過ごされてるという事を述べてきた。

このような適切な問題設定をする事は可能なのだろうか。

自分の携わる分野に関する哲学的な基盤がまだまだ未発達な場合も多いと思う。
自分が学んでいる環境学は、その最たるものだ。

こういう場合には、自らその体系を一から作り上げるのは、時間的にも知力的にも修士にとっては困難を極めるだろう。

考えられる最もいい方法は、ごく普通のものだが、科学哲学一般について一通り学んでみる、というものだ。

まず、一般的な科学哲学とはなにか、それを知る事。

そして、自分の分野ではどんな哲学的な問いがありうるのか。それを考えてみる事。

これなしには真に付加価値を出せる論文を書く事はかなわない。そこには、どんな分野にも共通するような普遍的な問いが数多く存在する。


科学とは何か。
科学はどうあるべきか。
真理とは何か。


最低限の努力ではあるが、これらを知る事は、無限遠点からの視座に漸近するために必要不可欠な事だ。


これを踏まえたうえで、斬新なアプローチやロジックが通った成果物を形作っていくのだ。


永遠の問い:なにをするべきか


最後に1つ付け加える事がある。
ここで述べた事は、研究の「あるべき」姿を照らし出すための方法だ。
この「あるべき」に近づいていく事は何よりも重要な事だと思っているし、他の何にも増して優先されるべきだとも思う。

ただ、実際に研究に携わり実務に携わる際に、このような理想だけを眼前に据えて世界と対峙する事は、圧倒的な現実の前に身動き一つ出来なくなるという状況を造り出すかもしれない。
現場には、「あるべき」を一旦脇においてでも「やるべき」事がたくさんある。
これは自分が研究を進める中で学んだ事の1つであり、これもまた、真であると思う。



「何が本当に大事な事で、その中で自分はどんな役割を担う事ができるのだろうか。」
そんな事を考えながらも、一歩一歩進んで行かなければいけない。


時には、「あるべき」を捨てる決断をしなければならないかもしれない。
ただ、それはこれまで述べてきた事を無視した事と同じではない。

極限まで悩み、考え抜いたからこそ見える風景がある。

そう信じている。




研究とは、「研ぎ」「究める」事だ。
鋭利な頭を携え、知のフロンティアを切り崩して行こうじゃないか。



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勉強をほとんどせずに東大に入る方法

あるいは、目標達成への唯一の賢いやり方


東大や京大など、日本のトップ校と言われる大学に入る事は、実は全然難しくない。

言ってしまえば、誰でも入れるのだ。
正しい”やり方”さえ知っていれば。

ただ、正しい”やり方”を模索する事にエネルギーを使っている受験生を見た事は、残念ながらほとんどない。
皆、学校で教えられた知識、予備校で配られた教材、そしてあまりにも貧弱な視野だけを携えて受験に臨む。

10代後半の貴重な数年を勉強に費やして、それでもなお多くの受験生が失敗してしまう。
これは、すごく悲しい事だと思う。
彼ら/彼女らにとっても、日本にとっても。


遠い昔の話だが、自身、浪人時の大学入試3か月前ぐらいに受けた京大模試でE判定が出たぐらいから勉強を始めた。一日10時間もやった記憶は無いので、実質勉強時間は一か月を少し超えるぐらいだろう。勉強開始当時は、センター模試みたいなやつでも5科目ほどが30点付近と、目も当てられない点数だった。
それくらい、高校、浪人時代含め勉強をした事がほとんど無かった。

ではなぜ、そんな自分が、他の学生よりも圧倒的に少ない勉強時間で大学に入る事が出来たのか。

それを記してみようと思う。

気付けばもう、受験から5年の月日が経った。そろそろ悩める後輩のために、その方法論を文字にしてもいいかもしれない。そう思い立った。

ちなみにこの勉強法は、わりと色んな範囲に適用できる。
参考にしてみて欲しい。

概要


一言で言うと、「色々な勉強法のベストミックスを探し出す」という風になる。

全体の流れは、
・戦略を描く
・勉強法の一般化、抽出、構造化
・各論の方法の設定

となる。
言うまでもなく、2つ目の項目がこの勉強法の中で最も重要な部分になる。


戦略を描く


まずは、ゴールを決める。
行きたい大学、学部。
なぜ行きたいのか。モチベーション等々。
そして、どんな問題が出て、合計で何点取れば受かるのかを調べる。

次に、現状を認識する。
自分の得意科目、不得意科目。
それが具体的にどの程度のレベルなのか。

ここでゴールと現状のギャップを良く認識しておく事、これが重要。
ゴールに戻り、どの科目で何点を取ればいいのかを、得意、不得意に照らして考える。

最後に、次の項目で説明するように、受験の全てを貫く勉強法を決める事になる。

「敵を知り、己を知り且つ戦術を知らば、百戦危うからず」である。


勉強法の一般化、抽出、構造化


やる事はシンプル。ただ少しだけ、頭を使う。

まず、巷にあふれた勉強法の本の中で、有名なものから順に10~20冊ほど斜め読みする。
少し大きめの本屋に行けば、100冊を優に超える勉強法の本が並んでいるだろう。
有名な著者や本は、ネットとかで調べれば大体分かる。
有名どころのいくつかは、実際に買って熟読する事をお勧めするが、それ以外は立ち読みレベルでも構わない。

そして、ここからが重要。
それらの多くの勉強法の中には、同じ事を言っているものが数多くある。
別の人が似たようなやり方を唱えている部分が、科目ごとにたくさん見つけられると思う。
それを見つけて抜き出す。

そして、それらを並べてグループ化し、抽象度を上げたり下げたりしながら、体系的にまとめあげる。
一般性が高い、「原理・原則」レベルまで引き上げてまとめるのがいい。
つまり、それぞれの科目における核となる方法論を整理するのだ。


勉強法の提唱者一人ひとりが唱えるやり方にはムラがあり、合う合わないが存在する。
ただ、多くの人や別々の本が同じ事を良いと言っているのなら、それが比較的多くの人にとって効果的な勉強法である確率が飛躍的に高まる。
本質的な構造を捉えた効率的で限りなく”正しい”に近いやり方なのだ。
この作業は、そういう前提に基づいている。


受験勉強全体を通しての進め方から、科目ごとの大きな戦略までが、この作業の対象となる。
ちなみに、前の項目”戦略を描く”の部分の設定の仕方も、大抵の有名な勉強法ではカバーされている。

例を1つ挙げる。(自分の場合)
数学は、パターン認知。
代表的な問題の解法をある程度覚えてしまえば、2次もそれの組み合わせで解ける。
各分野の基礎を一通りやった後は、基礎的な問題集を一通り暗記し、その後難しい問題で組み合わせる力を向上させる。


経験論だけど、どれか一つ、一番自分に合いそうな方法を「コア」の勉強法として設定して、他のやつを少しずつ取り入れていくというやり方が効果あり。
自分の時は、和田式だった。

そして各論へ


ここでは、直接的に実践につながるタスクを決める事になる。
科目ごとの細かい勉強法、使用する参考書など、何をやるかが明確に決まっている状態にまで持っていくのがこのプロセスの目的だ。
ここまでくると、かなり柔軟に勉強法をアレンジできる。

自分の現時点での学力、やりさすさ、などを考えて、個々の勉強法を色々な勉強法の中から拾っていく。
ここでもやはり、多くの著者によって言われている方法が強い。

全体としての方法論の整合性に注意する事は言うまでもないけど。


多くの優れた勉強法は、各個人の学力の段階によって使用する参考書まで明記してくれている場合が多い。

実践は、避けて通れない


ここまでくると、受験に必要な全ての情報が出揃っている。
目標とする大学、学部、各科目で何点取るか。
そして、どの参考書のどの部分をどれくらいやって、この時期にはどのくらいの点数を取れるようにいなっているか。
以上で綿密に作成したこれらの工程表を携えて、あとは順番通りに実行していくのみ。
簡単。


これで本当にできるのか、渦巻く不安に勝てそうにない人がいたら、実際に始めてみるといい。
効果はすぐに出る。
これは、何もやらなくても出来てしまう魔法の薬ではない。
でも、始めてしまえば、周りを見渡して自分の学力の伸びを確認して、それがいかに魔法に”近い”かがわかるはず。
それこそ皆から見れば、勉強をほとんどやっていないに等しいというぐらいのスピード感があるだろう。

効果があまり出なければ、やり方に修正を加えて行けばいい。
代替となるべき選択肢も、今までの体系化プロセスをしっかりと踏んだなら、もう既に頭の中に入っているはず。


一秒も勉強したくない。そんな人には、残念だけど自分が言える事は何もない。
自分もその状況を痛いほど知ってるから。
これは、前述のように、魔法の薬ではない。
目標を持つ事、それと現実のギャップ、そして不安。それのみが、エネルギーになる。



残る、幾つかの懸念事項


このやり方は、受験勉強としては間違いなく最適だけど、全てに通じる勉強法としては”正解”ではない。
欠点は、ある。

前提条件、それもかなり縛りのきつい
ここで、一般性の高い勉強法を求めて読んでくれていた人たちへの悪い知らせ。
まぁ読めばわかると思うが、ずばり、勉強法がある程度確立された対象にしか使えない。
すぐに挙げられるのは、大学受験(高校以下は一切知らない)、語学、メジャーな資格試験(司法、会計士etc)。
結構カバーしてんじゃん、と思う人もいるかもしれないが、これらは実際そんなに使えない。
それを通過したその先にこそ広大な思考空間が広がっている。


思考停止の危険性
この勉強法は、誰よりも少ない勉強時間で結果を出すために、ベストの効率を目指す。それゆえ、自分で戦略を考える事を放棄している部分がある。
大学受験が人生の大きな転換点になりうると意識した上で、あえてその立場を取る。受かるか受からないかだけが重要だと。
受験間近の高校生にとっては、それの弊害と言う視点からものを見る事がいかに難しいかも、わかっている。大学受験は、自分自身も経験した事だから。

だから、それでどこに受かっても自分が頭いいとは思わない方がいいし、入学してからは全く別のアプローチも使って様々な試練に立ち向かっていかなければいけない。

それでもなお、自分がこのやり方に一定の価値を認めるのは、努力しただけで東大にでも入れてしまうという現状があって、それだと後々すごく苦しむ事になると、そう確信してるから。それよりは、”まし”だと。
戦略的なやり方に慣れる事、そういうものがあると認識する事だけでも、大きな一歩なんじゃないか。そう思っている。

努力それ自体の価値
それでもやっぱり、努力できる人は強い。
努力して何かを勝ち取った経験は、大きな宝物になると思う。
この勉強法を使えば、一年も二年も机にかじりついて勉強する必要は全然なくなる。ただ、そういう経験も自信につながったり、強みになったりする。

結局どっちなんだよって感じだけど、入学してからそういう経験を積むのはとても大事、というぐらいの意味で。

戦略と努力は自転車の両輪だ。
前輪で舵を取り、後輪でガンガン推していく。それが理想。


それでも大学に行く意味


いい大学に入ることの価値が希薄化したと言われて久しい。
その主張は、それらが論じている意味においても、ある部分は真で、ある部分では偽だろう。

ただ、能力主義社会になっただとか、官僚のうまみがあんまり無くなっただとか、そんなちっぽけな事じゃなしに、いい大学に入る理由はあると思う。

それは、志が高く、熱意と才能にあふれた同世代のトップランナーたちに会う事が出来ると言う事だ。
刺激を多く受け、自分の視野が広がって、より密度の高い大学生活を送ることが出来るんじゃないかな。

東大、京大にホントに頭がいい奴がいるかと言われれば、個人的には、すごく運が良ければ(それこそ万に一つの確率で)出会えるかもね、ぐらいしか言えないが。(噂に聞く限り、どうも何人か存在はするらしい。)

ただ、それでも面白い奴らはそれこそゴロゴロいる。
地元の範囲では絶対に出会えなかったような尖った逸材は確実にいる。


自身、学部時代を振り返って、楽しかったの一言じゃ語りきれないぐらい多くの経験をした。
一生付き合っていくであろう最高の仲間たちと出会う事が出来た。

これだけは言える。

「来てよかった」



自分と同じように感じる機会を、多くの後輩が持ってくれる事を願っている。

おしまい。


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- J 「ボートの三人男」
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